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25年後の自分に向けたサリエリの挨拶

 恩師ガスマンが1794年に死ぬと,サリエリは,宮廷楽士長の職と共に,ガスマンが1771年に設立した「音楽家協会(音楽家寡婦・孤児年金互助協会 das Pensionsinstitut für Witwen und Waisen der Wiener Tonkünstler)」の運営を引き継ぎます.その互助会が1796年に創立25周年記念を迎えると,記念コンサートために "La Riconoscenza"「感謝」という世俗カンタータを作曲します.サリエリ46歳の時で,恩師ガスマンも40代半ばで亡くなっているし,サリエリが自分もそろそろ「晩年」だと思っていて不思議はありません.互助会が末永く続くようにとの願いも込め,「感謝」というカンタータのスコアの最後のページに,将来互助会が創立50周年記念のコンサートを行うときに,こういうカンタータを作曲する作曲家やそれを演奏する人びとに向け,祝福と挨拶の言葉を書き込みます.気さくな職人気質のサリエリらしい思いつきだと思います.
 ところが例外的に長命であったサリエリは,1821年,なんとその50周年記念コンサートも自分が主宰し,記念の作品を作ることになるのです.このときサリエリは,ガスマンが50年前の創立記念コンサートに書き下ろしたカンタータ "Betulia liberata"「解放されたベトゥリア」(旧約聖書『ユディト書』の物語で大勢の作曲家が作曲している)を軽く改作して上演することで,創立者ガスマンを称えました.舞台中央に月桂冠をかぶらせたガスマンの胸像を置いたそうです!
 さて,サリエリが結局自分に向けて書いてしまった挨拶は次の通りです.カンタータ「感謝」の直筆手稿は,例によって我等がサリエリゼミの主催者大塚先生がオーストリア国立図書館から見つけ,電子ファイルをシェアしてくれました.

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 サリエリらしいエピソードだと思い,特にご紹介しました.

サリエリ晩年の合唱曲 "Spiritus meus attenuabitur"

 夏休みが明けてから原稿と仕事の締め切りに追われ,ブログの更新もできませんでした.少し時間が出来たので,気になっていた事を一つ片付けます.

  1820年の冬にサリエリは痛風が悪化し,痛みで眠れない夜を過ごしたのだそうですが,その眠れない夜に作ったのが "Spiritus meus attenuabitur"という合唱曲でありました.これは旧約聖書『ヨブ記』第17章の冒頭の2行 "Spiritus meus attenuabitur. Dies mei breviabuntur. Et solum mihi superest sepulcrum." 「わが息はすでにくさり,わが日すでに尽きなんとし、墓われを待つ」を混声四部合唱にしたものです.
 ペトルッチにはまだ上がっていませんが,オーストリア国立図書館蔵の手稿を,我がサリエリゼミ主宰の大塚先生が見つけてシェアしてくれました:

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急いで清書してみました.私には通奏低音が分からないので,伴奏低音部は数字抜きにしました.またその低音部に間違い(というか現場の演奏者のみに通じる省略しすぎた書き方)が複数箇所あり,修正させてもらいました.美しい曲です:
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音源があるようです:
https://www.youtube.com/watch?v=NmexjypflAY&t=70s

素晴らしい演奏です.指揮者の方が手稿から起こして演奏されたのだと思います.

まだ他に片付けたいことがたまっておりますが,とりあえず一つ済ませられました.

ドストエフスキー『ステパンチコヴォ村とその住人たち』

 夏休みも管理業務に追われたり,歯を折ったりしているうちに,なすこともなく過ぎてしまいました.くよくよしていたら,若い同僚の高橋知之先生から,ドストエフスキーの新訳を御寄贈戴きました.

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立派なお仕事です.もちろん私などは,この作品を知りませんでした.ありがとう御座いました.これからのさらなるご活躍を期待しております.

千葉大学文学部 Webオープンキャンパス2022

千葉大学文学部 Webオープンキャンパス2022が,本日 2022/08/03 公開されました.

https://www.l.chiba-u.jp/applicants/guide/guidance/index.html

国際言語文化学コースの模擬授業を今年度も私が担当しております.今年度はブリュンヒルデとクリームヒルトのお話です.素人造りでお恥ずかしいものですが,予算ゼロでがんばって作りましたので,広い心でご覧いただければ幸いです.

2022模擬授業「闘う女性たちの運命」

https://www.youtube.com/watch?v=Le3gvsy3WF8

コロナ禍の下でのWebオープンキャンパスも今年度で3年目になります.過去2年の模擬授業も以下のリンクからご覧になれます.

2020模擬授業「ピノキオの話」

https://kystrmapsrv.chiba-u.jp/video/V017281/0015enFpCRf04WEM4fI/

2021模擬授業「死の舞踏」

https://kystrmapsrv.chiba-u.jp/video/V045787/001qM92j5r01jW15Nts/

千葉大学では,一部来場型のオープンキャンパスも御座います.感染対策を十分に整え,高校生・御家族の皆様に直接キャンパスを見て頂きたいとお待ちしております.

https://www.chiba-u.ac.jp/exam/event/opencampus.html

話法が総出演!

モーゼル『サリエリ伝』に更にひどい文例があったので紹介します.176頁から177頁にかけてのパラグラフが一文で成り立っていて前半の仮定節の中の,そのまた名詞節に話法が3つとも出てきます:

Wollte man das Spektalel des Traumes aufopfern, oder annehmen, daß Danaus ihn wirklich hatte, und dieser Traum bloß den Zusehern auf die in so vielen Balletten schon da gewesene Art versinnlicht würde, der Bekehrunges-Plan Hypermnestra's aber nur in dem fernen Mordgeschrei und der falschen Nachricht von der Ermordung der jungen Gatten bestanden habe; so fiele das Anstoßige der deutschen Bearbeitung dieser Oper (die übrigens in dichterischer Hinsicht nicht vorzüglich ist) hinweg, und dieses herrliche Werk, mit Fleiß und Würde ausgeführt, würde auf jeder deutschen Opernbühne, welche dramatische Musik nicht ganz fremd geworden, die größte Wirkung hervorbirngen.(176f)

(ダナオスの)夢が目の前で演じられるのを諦め,その代わり,ダナオスはその夢を本当に見ました(=直説法),そしてこの夢は多くのバレーでよくあるやり方で観客に感覚的に伝えたことになった(=接続法2式),またヒュペルムネストラの(ダナオスを)回心させる計画(の実現)は,ただ単に遠くから叫び声が聞こえ,若い夫たちが殺されたという偽の知らせによってのみ示された(=接続法1式)ことにする,という演出を受け入れて良いというのなら(仮定節ここまで),このオペラのドイツ語改訂版の悪いところはなくなるし,がんばってちゃんと演じれば,作品自体は優れているのだから,この間まんざらこういう劇音楽をまったく受け付けないわけでもなくなったどのドイツのオペラ劇場でも,大きな反響を呼び起こしたかもしれないが(まあそうはならないよね).

道を踏み外したような和訳の試みで申し訳ありません.私にはなかなか手強い相手でありました.

モーゼルのテクストの誤植?

モーゼル『サリエリ伝』の中に,不思議な箇所があって困っています.フランス語版「ダナオス」をドイツ語版に改作する話ですが:

Der Anfang des dritten Actes ist von jenem des Originals ganz verschieden; nach einer kurzen Instrumental=Einleitung folgt eine neue Scene der Hypermnestra und des Pelagus, worin sie sich verabreden, auf welche Weise sie das Herz des Danaus zu rühren, und ihn von dem schrecklichen Vorsatze, seine Neffen durch seine Töchter, ihre Gattinnen, ermorden zu lassen, abbringen wollen. (176)

〝第3幕の初めの部分は,原作とは全く違っている.短い器楽の導入の後,ヒュペルムネストラとペラグスの新しい場面が続く.そこで彼らは,どうやってダナオスの心を動かし,甥たちを,その妻である自分の娘たちによって殺害させるという恐ろしい考えを改めさせるか,相談するのである.〟

この zu は必要ないのではないか,疑問が解けません。どなたか助けて下さいませんか.

これは非人称受動表現?

モーゼルの『サリエリ伝』講読中ですが,174頁に難解な構文が出てきて困惑してしまいました.ドイツ語の先生方にお尋ねします.

Dafür aber wird Salieri's Name glänzen, und sein Trofonio, seine Danaïdes, sein Tarare, sein Axur u.s.w. werden als unvergängliche Vorbilder echt dramatischer Musik geehrt werden, wenn jene Componisten, welche jetzt die Lieblinge des Tages sind, und von denen gerümt wird, »daß die Welt sie auf den Händen trage,« mit der Mode, der sie gehuldigt, verschwunden, und samt ihren Arbeiten schon längst vergessen sind.

ーーーこれに対してサリエリの名前は輝き続け,彼の『トロフォニオ』,『ダナイデス』,『タラール』,『アクスル』などは純粋な劇音楽の不朽の規範として称えられるであろう.当時は時代の寵児であり,「世間が甘やかしてるんですよ」と称えられたああいう作曲家たちの方は,彼らが臣従した流行と共に消え失せ,彼らの作品共々とっくに忘れ去れたのだが.ーーー

下線部の箇所が難解でした.この von は受動態のいわゆる「動作主」ではなく,「~について,~関して」という意味で使われており,gerühmt wirdは「褒めそやされた」という非人称受動であって,引用符以下は「~のように」と緩やかにつながっているだけ,と解釈しました.因みにこの引用にはモーゼル自身の注が付いていて,August Friedrich Ferdinand von Kotzebue (1761-1819) の "Die Stricknadeln" (1805) 第2幕第6場のLandrätinの台詞からだそうです.
この引用部分を3人称単数の「主語」としてgerümt wirdにつなげるのは,意味の上からも,rühmenという動詞の用法からも無理なようです.そうなると,他動詞のrühmenにこのような非人称受動表現があり得たということでしょうか.(gehuldigtの次にはhattenが省略されています.200年位前のドイツ語では従属節の中でhaben/seinが省略されることがしばしば見られます)
音楽史に詳しい方々にうかがうと,ライバルであったチマローザの名前が全く出てこないなど,「党派性」の強い,偏った記述ぶりであるようですが,何しろ1冊しかない同時代の評伝なので,がんばって講読を続けております.同好の方,どうかお知恵を貸してください.

「ゼウクシスの“笑い死に”について」

 昨年度私が関係した大学院プロジェクト論集が2冊,公開されました.それぞれ若い研究者から意欲的な研究ノートが寄せられておりますので,ご覧下さい。

石井正人編『高等教養教育研究』(千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書 ; 369集)2022
https://www.ll.chiba-u.jp/cu-books/contents_252.html

論文
石井正人:大災害を描くリアリティ―リスボン大震災と文学・思想―
 
研究ノート
大塚萌:デジタルアーカイブにおける楽譜資料の入手と活用―アントニオ・サリエリのオペラ作品を例として


石井正人編『文化交流研究』(千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書 ; 370集)2022
https://www.ll.chiba-u.jp/cu-books/contents_253.html

論文
石井正人:ゼウクシスの“笑い死に”について
 
研究ノート
原楓果:ドイツ語における述部の不定形成分・過去分詞の前域配置について
 
 

ノイジードラー「ユダヤ人の踊り」

 作曲家・演奏家の榎本智史氏のツイートで教えていただいたのですが,Hans Neusidler (1508?-1563)というドイツのリュート奏者・作曲家による,「ユダヤ人の踊り」という リュート用の曲が残されています.1536年に出版された2巻本の作品集に収録されているのですが,リュート用の記譜で私には読めません.

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Adolf Koczirz (1870-1941)が校訂した Österreichische Lautenmusik im XVI. Jahrhundert. Denkmäler der Tonkunst in Österreich, Bd.37. Wien, Österreichischer Bundesverlag, 1911. の中に収められています.

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とんでもない楽譜です.このまま演奏すると,こんな感じになるようです.

https://www.youtube.com/watch?v=lhI1pGOCqWE

これは偏見と差別なのか,それとも,聞き慣れない「調性」をなんとか模倣しようとしたのか.
実際にあまりの「不協和」に驚いたのか,「修正」した演奏もあるようです.

https://www.youtube.com/watch?v=z55gwQLVqIc

旋律線を半音上げ,ホ長調で調和するようにしたのです.けれどもこれだと,一気に迫力も魅力も無くなるような気がします.今となっては容認され得ない「悪戯」が不思議に現代風な表現の拡大を生んでしまっているということでしょうか.何とも評価の難しい音楽史のエピソードです.

サリエリ "Die Neger"のアリアにおける転調

サリエリ最後のオペラ "Die Neger" (1804初演)第2幕の,ヒロインFannyのアリア:
 
Ach, ich wollte schon verzagen,      私はもうあきらめて
glaubte alle Rettung fern.       救いはないと思っていたけど
Doch die Gottheit rettet gern,       でも,神は救って下さる
wenn Verlassene einsam klagen.   見捨てられた者が独り嘆いていれば
Ja, die Gottheit rettet gern,        ええ,神は救って下さる
wenn Verlassene einsam klagen.   見捨てられた者が独り嘆いていれば

Trocknen will ich meine Zähren      涙を拭いて
und zum Himmel blicken auf !    天を見上げるの!
Dort wird aller Dinge Lauf        すべてのことが
mir zum Besten sich bewähren.   私にとって一番良いようになる
Dort wird aller Dinge Lauf        すべてのことが
mir zum Besten sich bewähren.    私にとって一番良いようになる
Falkland lebt ? Er lebt ?        フォークランドは生きているの? 彼は生きているの?

Ach, ich wollte schon verzagen,      私はもうあきらめて・・・(以下最初に同じ)
glaubte alle Rettung fern.
glaubte alle Rettung fern.
Doch die Gottheit rettet gern,
wenn Verlassene einsam klagen.
wenn Verlassene einsam klagen.
Ja, die Gottheit rettet gern,
wenn Verlassene einsam klagen.
einsam klagen.
einsam klagen.

は,ハ長調で作られていますが,歌詞の第1節の終わりでト長調に転調した後,第2節を変ホ長調に転調します.第3節は第1節の繰り返しで,またハ長調に戻ります.
 オーストリア国立図書館蔵のサリエリの手稿,第107葉表面から第113葉裏面までがそのアリアですが,転調部分は第108葉裏面です。

第107葉表面
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第108葉裏面
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こういう転調は19世紀初めの頃はまだ珍しいものであったようで,モーゼルがサリエリの評伝の中で:
Die Ausweichung in eine entfernte Tonart bei dem zweiten Vers der Stelle:
Trocknen will ich meine Zähren,
Und zum Himmel blicken auf!
zeigt praktisch, wo Ausweichungen an ihrem Platze sind.
「ここ箇所の第2の詩句で離れた調に転調することが:
  涙を拭いて
  天を見上げるの!
 何処に彼女の位置の変化があるか,実際に示している.」
と,特に取り上げて評しています.
 シンセサイズすると(不出来なもので申し訳ありませんが)こんな感じです:


 近親調(属調・下属調・平行調・同主調)からすると,ト長調ー変ホ長調という長三度下(短六度上)の調への転調は,二段階先になります.19世紀も後半になれば,ちょっとした小曲の中間部にだってこのくらいの転調は現れるでしょう.サリエリーモーゼルの段階では,ヒロイン・ファニーの嘆きの祈りが,信望愛の平和の境地に至る,その転移を表すための斬新で的確な手法だったようです.若干の不安定さや非現実性も含めて,ということであるのでしょう.
 いたずらに感覚が「すれて」しまって,新鮮な気持ちで古い音楽を聴けなくなるのも,良くないことかもしれません.モーゼルの講読でふと出会った,小さな発見でありました.

 カリブ海の植民地における白人領主の内紛を題材にした,この喜歌劇 "Der Neger" も,恐ろしいタイトルが酷い内容を暗示しますが,意外にそれほどひどいレイシズムの内容でもないようです。台本を書いたトライチュケに進歩的な思想があったようです.
 序曲以外手に入りやすい音源もないようなので,差し出がましいながら勉強会の成果を紹介する次第です.