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代名副詞(Pronominaladverbien)について

 印欧語系の言語を学ぶのに,句・節・構文の理解を固めることが不可欠だが,そのために代名詞と副詞の構造と機能について理解を深めることが重要だと最近つくづく思うようになりました.代名詞と副詞については,高校までの文法では詳しく学びきれないようです.
 中学高校でしっかり英文法を学ぶと,句・節・構文についても,形容詞と名詞という品詞の区別も理解しているので,その先の指導はよく進みます.構文をより深く理解するためには,定形動詞とは何か(何故不定詞を不定詞と呼ぶか),名詞の格の機能を理解する必要がありますが,これには古い形態変化を多く残したドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語・ロシア語,そしてラテン語・古代ギリシャ語・サンスクリット語を英語と共に学んでいくことが極めて効果的です.
 大雑把に言って,名詞の格の用法と前置詞の機能を学ぶのに副詞の理解が大いに助けになり,冠詞や論理構造を学ぶのに代名詞の理解が重要だと思います.
 たとえば,「中性名詞」 neuter や「中立な」 neutral の語源となったラテン語の neuter は,ne + uter という成り立ちで,uter 「2つのもののうちどちらか」という不定代名詞を ne で否定し,「2つのもののどちらでもない」という意味を表す不定代名詞です.ド・モルガンの法則が文法化されているのです(逆ですが).
 副詞と代名詞の理解が大切だと思うようになると,こんどはその結節点でもある,代名副詞 (Pronominaladverbien, pronominal adverbs)が気になり始めました.位格名詞句を代名詞で表すためのゲルマン語における発明であるらしい.ドイツ語と英語の代名副詞の一覧を作ってみました.

Pronominaladverbien_d_e.jpg

 英語の方は全てもう余り使われない古風な,改まった語であるようです.ドイツ語の方はよく使う表現であり,人称代名詞と指示代名詞の区別や,副詞句の用法の発展と関連を説明するのにはよい教材であるように思えます.
 この関連でさらに気になるのは,ドイツ語のいわゆる副詞的接続詞,接続的副詞 Konjunktionaladverbien です。成り立ちからいって代名副詞と重なるところが多いのですが,代名副詞のようにすっきりと文法化できないようです.たとえば deswegen は,「wegen + 代名詞の2格」として今でも活発に使用されているわけではありません.

Konjunktionaladverbien.jpg

こちらの表はまだまだ追加が必要です.nichtsdestowenigerとかdeswillenとかderenthalbenが落ちています!またご報告します.

 

cisとtrans

 ラテン語の「cis/citraとtrans」,「cis/citraとuls/ultra」の対立の違いを理解することは,かなり厄介です.

 「cis/citra こちら側の」に対して,山や川などの明確な区切りを超えた向こう側を「trans 向こう側の」で表します.造語成分にもなり,”cisalpinus, -a, -um” 「アルプスこちら側の」vs. “transalpinus, -a, -um”「アルプスの向こう側の」とか,”cisrhenanus, -a, um”「ライン河のこちら側の」 vs. “transrhenanus, -a, -um”「ライン河の向こう側の」などがよく使われます.
 この造語の用法が要注意で,Gallia cisalpina「アルプスのこちら側のガリア」, Gallia transalpina「アルプスの向こう側のガリア」でよく使います.更に「アルプスのこちら側のガリア」を,Gallia cispadana「ポー川のこちら側のガリア」、Gallia transpadana「ポー川の向こう側のガリア」に分けます.
 イタリア半島北部のポー川流域の地域までローマ人はガリアと呼んでいた,という点にハッとするのが,ラテン語学習の初級です.
 同じくGermani cisrhenani「ライン河のこちら側のゲルマン人」,Germani transrhenani「ライン河の向こう側のゲルマン人」もよく使われ,ゲルマン人がライン河西岸にも居住していたことにも驚かされます.
 そして「こっち」「あっち」という観点も,当然ローマから見てのことであり,特定の中心や原点が暗黙のうちに設定され,前提とされているものだ,と理解することが必要です.これは「極東」やら「中近東」という名称の偏向を理解することにつながりますが,それより何より,実際古典学の実用的な問題でもあり,「ローマを中心にした上での表現だ」ということを常に意識していないと,テクスト読解の上で地理関係が分からなくなってしまうのです.
 さらにここから理解すべきなのは,どれほど峻険な山,大河であろうとも,決して人間の生存圏にとって越えがたい境界などにはならず,今の私たちが心配しなくても古来人間は山を越え,川を渡り,その両側で生きるものらしい,ということです.
 川や山を強力な区切り,境界として考えるのは,軍事的な関心や土地所有や領土の関心からです.「アルプスのこちら側向こう側」などという区別は,ローマ人が言っていることに過ぎません.cis/citraとtransの対立を読解することは,ローマのimperiumの覇権や防衛の関心をたどることに等しい.むしろ「こちら側」などというものの理解はそんなに簡単なことではないようだと学ぶべきところではないかと思います.

 一方,「cis/citra こちら側の」に対して,「こちら側」に属すると暗黙のうちに前提とされている領域を越え出たところを「uls/ultra 越えた向こう側」にあると呼びます.元来「遠く隔たった」という意味ですが,そこから,最早「こちら側には属さないところ=遠くある」と捉えるようです.
cis/citraには形容詞形 *citer, -tra, -trumが,uls/ultraには形容詞形 *ulter, -tra, -trumが対応しますが,このままの形で原級として使用されることはなく,比較級 ”citerior, citerius”, “ulterior, ulterius”,最上級 “citimus, -a, -u",“ultimus, -a, -um”で用います.transは,特定の境界線を越えたか越えないかが問題だからだろうと思われますが,比較変化はありません.
 最上級のultimusが「最果て」を意味することを考えると,uls/ultraでは「こちら側」の領域を越え出て,離れていった,その距離感が問題になっていることが分かります。
 この比較級は,Gallia citerior (=cisalpina), Gallia ulterior (=transalpina),Hispania citerior, Hipania ulteriorというふうに使用します.ローマから見た大雑把な位置関係を表していくのです.

 古くから辞書や参考書は,cis/citra-transとcis/citra-uls/ultraの違いを説明するのに苦労してきました.Hermann Menge: Repetitorium der lateinischen Syntax und Stilistik(私の手元にあるのは11版の再版ですが)にはcis/citra-transが直接に接している領域同士に用い,cis/citra-uls/ultraが直接には接していない領域同士に用いるという記載があります(Zweite Hälfte, S.105, 144)が、私が考えても的外れなように思えます.実際にThorsten BurkardとMarkus Schauerによる大改訂(2000)では完全に削除され,ultraが「越え出る」という意味から,広く比喩的に用いられることが説明されています(265).Christian Touratierの説明が,図入りで一番分かりやすいものでした(私はドイツ語訳しか持ってません).
 
 ローマ帝国もとっくに滅び,中世ともなると,ローマから見て,という「こちら側」への批判的意識が薄れ,transとultraの区別は全く見えなくなってきます.中世以降造語に混乱が見られるのも当然かも知れません.問題なのは cis をしっかり捉えられるかどうかです.
 「この世のことではなく,彼岸の世界の」という場合,transmundanus, -a, -umとultramundanus, -a, -umのどちらが正しいと思われますか?こちらの世界とあちらの世界mundusの間に確たる境界があるわけでもないので,古来あるのはultramundanusの方ですが,中世からtransmundanusが現れます.海を隔てた向こうはどうでしょう.もちろんtransmarinus, -a, -umですが,中世になってアフガニスタン渡りのラピスラズリを知った時,ヨーロッパ人はこれをazzurum ultramarinumと「海外から来た青色顔料」と呼んだのだそうです.

 「こちら側」が何なのか,見失うことはたやすいようです.

Kind や König の話

 Kind やKönig, kindやgentleの語源的つながりについては,さんざん授業で話したよね,と言うのに,長い付き合いの教え子・若い同僚がぽかんとして「埴輪のような顔」をするばかりなので,繰り返しておきます.おおよそ英語を中心にヨーロッパ語関係の外国語にかかわる人なら誰でも知っていて,授業で必ず一度は話しているはずのことなので,ここで事々しく書くのはお恥ずかしいのですが,不肖の弟子のせいです.

 ドイツ語のKind「子供」/König「王」と英語のkin「一族」/child; kid「子供」/king「王」,またkind「種類」/kind「優しい」は,語源的に全て共通で,印欧語の*ĝen-「産む」に由来すると言われています.私の手元にはJulius Pokornyの Indogermanisches Etymologisches Wörterbuch の第2版(1989)しかありませんので,最新の研究をどなたか教えて下さると幸いです.
上に上げたどの語も、共通の先祖から生まれた「一族」を原義とし,「一族に属する者」から「子供」や「王」が派生しているようです.この場合,「子供」はともかく,「王」の意味が派生する流れがよく分かりません.「(高貴な)一族に属する者」という特別な用法から生じたのではないかという説があります.私は「一族を代表する者」という意味から発展したのではないかと考えています.というのも、古い言語の成り立ちを考察しようとするのに,最初から階級差を前提にするのは間違いではないかと思っているからです.
 同様にkind「優しい」も,「生まれつきの性格」「生まれ育ちの良さ」などから発展したのだそうですが,私は「同じ一族の属する者どうしの信頼・安心」という感情から説明出来ないかと思っています.
 他方でこの印欧語の*ĝen-は,ラテン語において、gigno「産む」/nascor「生まれる」/gens「種族」/genus「血統、種族」/natio「出生、民族」という諸語に発展したようです.このうちgenus (generis) がフランス語のgenreとなっていきます.
 ゲルマン語の方の流れと比較して興味深いのは,ラテン語のgensから派生した形容詞gentilisです.ラテン語では「同じ種族に属する」という意味ですが,たとえばフランス語ではgentilは「優しい」という意味の形容詞になり,英語のkindと意味の発展が平行しています.gentilの場合も,「高貴なgensに属する」という原義から発展したのではないかと言われますが,私はkindの場合と同じく,「同じ一族の属する者どうしの信頼・安心」という感情から意味の発展を説明できるのではないかと考えています。
 因みにラテン語のgentilisは,「同じ種族に属する」という原義から,「同郷の」という意味になるのはまだしも,「非ローマ人,野蛮人」という意味も持つようになり,さらに「異教徒」という意味にもなります.「同じ種族に属する」という規定の流動性が良くたどれる意味の発展だと思います.これは別の流れから「ドイツ」ということばの語源にもかかわる問題ですが,きりがないので別の機会にします.