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自主ゼミ:ラテン語講読【4/11 10:30】

 千葉大学を定年退職しましたが、ラテン語講読の授業は自主ゼミとして継続します。関心のある方は、どうぞ参加してください。

 これまでと同じ曜日時限(火2)に、千葉大の授業授業カレンダーに準じてZoomで開催します。年間30回です。これから2年掛けて、Tacitus "Historiae" を講読します。テクストはLoeb叢書を使います。

 メールで問い合わせていただければ、接続先などお教えします。
 mishii@faculty.chiba-u.jp


火曜日 10:30-12:00

1. 4月11日(火) ガイダンス (参加者確認、分担決定)
2. 4月18日(火) 1,2
3. 4月25日(火) 3,4
4. 5月9日(火) 5,6
5. 5月16日(火) 7,8
6. 5月23日(火) 9,10
7. 5月30日(火) 11,12
8. 6月6日(火) 13,14
9. 6月13日(火) 15,16
10.6月20日(火) 17,18
11.6月27日(火) 19,20
12.7月4日(火) 21,22
13.7月11日(火) 23,24
14.7月18日(火) 25,26
15.7月25日(火) 27,28

16.10月3日(火) 29,30 (分担の切り方を変えます)
17.10月10日(火) 31,32
18.10月17日(火) 33,34
19.10月24日(火) 35,36
20.11月7日(火) 37,38
21.11月14日(火) 39,40
22.11月21日(火) 41,42
23.11月28日(火) 43,44
24.12月5日(火) 45,46
25.12月12日(火) 47,48
26.12月19日(火) 49,50
27.12月26日(火) 51, 52
28.令和6年1月9日(火) 53, 54
29.令和6年1月16日(火) 55, 56
30.令和6年1月23日(火) 57, 58

ユピテルはその滅ぼさんとする人をまず狂気となす

 私より上の世代の文学少年にはよくあることですが,Quem Jupiter vult perdere, dementat prius.「ユピテルはその滅ぼさんとする人をまず狂気となす」というこの格言を初めて習い覚えたのは,林達夫「歴史の暮方」でありました.林達夫の「歴史の暮方」「思想の運命」「共産主義的人間」などは,花田清輝『復興期の精神』と並んで,高校生の時の愛読書でありました.(もちろん周囲からは馬鹿にされておりました)
 このような経歴の恥ずかしさに耐えて,敢えてまたこの格言と取り組んだのは,They drove the poor girl out of the village.というような場合のpoorの特別な用法を調べ直したくなったからです.杉山忠一『英文法の完全研究』(学研,1980)から引用しました.文副詞句・モダル副詞句が主語名詞句に属する付加語として現れる構文,というよりは表現法です.Poorでよく例示されますが,casualなどにも見られるらしい.
 おそらくこのような表現法の淵源は,ラテン語をお手本とした名詞化構文にあるのでしょう.それで私にまず(!)思いつくのが,「ユピテルは」の格言の prius の使い方だったのです.これは誤読の恥ずかしさでもあり,そのせいで最初に思い出すのです.「最初に」と表現したいとき,副詞句にせず,名詞句に付加語として付ける方法がありました.これもそうだと慌てて考えたら, priusとprimusの見間違いで,この格言のpriusはpriorの中性・単数・対格形であり,ここではちゃんと副詞として「最初に」と使われています.かくて一連の恥ずかしい行為の流れで,連想が働く次第です.
 何故こんなことを調べ始めたかと言えば,モーゼルの『サリエリ伝』前書きの冒頭の一文、

Mehrere Jahre sind verflossen, seit der merkwürdige Mann, von dessen Leben und Werken diese Blätter Nachricht geben, zwar im Alter schon weit vorgerückt, doch noch in voller Kraft und Gesundheit, den Wunsch gegen mich äuserte, daß ich dereinst seine Biographie schreiben möchte.

「この小冊子がその生涯と作品についてお知らせするかの人物が,かなり歳を取っていたとはいえ,まだ気力も健康も充分であったのに,いつか自分の伝記を書いて欲しいと私に漏らしたのは驚くべきことであったが,あれからもう何年も経ってしまった」

におけるmerkwürdigが、恐らくこの表現法であろうとようやく気付いたからです.「私ごときが」「はしなくも」という,日本人ならよく理解できる文飾であったらしい.恥ずかしながら,こんなことも最初の段階では読めておりませんでした.

 つれづれなる勉強は,「ユピテルは」の格言の大元を調べることに,さらに脱線してしまいました.ソフォクレスの『アンティゴネー』だそうです.620行以下の次のような箇所です:

σοφίᾳ γὰρ ἔκ του κλεινὸν ἔπος πέφανται.
τὸ κακὸν δοκεῖν ποτ᾽ ἐσθλὸν
τῷδ᾽ ἔμμεν ὅτῳ φρένας
θεὸς ἄγει πρὸς ἄταν:

ある者の叡智による有名なことばが明らかにした:
悪しきことを良きことだと思ってしまうこと
それは,その心を
神が滅ぼす人がすることだ.

ここで既に,伝聞になっているので,更に昔から言われてきた格言なのでしょう.
 サリエリの言葉も,モーゼルの言葉も,神に愛されていた者のそれとしか思えません.神に見放された者の狂気の言葉は現代の私たちの周りに溢れているように思えます.