SSブログ

ヒバリのように歌えぬのなら

 オランダの歴史家で,ライデン大学学長も務めたヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga, 1872 - 1945)の著書『中世の秋』(Herfstij der middeleeuwen, 1919)や『ホモ・ルーデンス』(Homo ludens, 1938)は,私のような世代の者は学生時代に読みふけって感激したものです.
 当時既に国際的に評価の高かったホイジンガは,ナチスドイツがオランダに侵攻した占領時代(1940-45)に,ナチスの反ユダヤ政策に公然と反対し,一時は収容所に入れられ,軟禁状態のままオランダの解放前に世を去りました.ウィーンでナチスにいびり殺されたという音声学の大家ニコライ・セルゲーエヴィチ・トルベツコイ(Николай Сергеевич Трубецкой, Nikolai Sergeievich Trubetzkoi, 1890 - 1938)と並んで,学者の良心の代名詞のような人物であると思います.他にもあまたおられますが,言語学と中世ヨーロッパ文化史の分野で私個人が学恩を蒙っているので,特に取り上げ,かくはコメントさせていただく次第です.
 感激して読みふけったとはいえ,ホイジンガの該博な学識と熟達した文体から,容易に単純明快な結論など読み取れるものではなく,『中世の秋』を読んだ後ふと気がつくと,結局2つの点しか記憶に残っておりません.
 1つはクリスティーヌ・ド・ピザン(Christine de Pisan, 1364 - 1430)のこと,特にその最後の作品「ジャンヌ・ダルク賛歌」(Le Ditié de Jehanne d'Arc, 1429)であります.ヨーロッパ史上初の自覚的なフェミニストとして名高いクリスティーヌ・ド・ピザンの著作にいつかはじっくり取り組んでみたいものと思いながら時間を無為に過ごしてしまい,先年ようやく『女性の都』("La cité des dames", 1405)について紹介記事が書けたばかりです.(蔵書を整理したら,『女性の都』のドイツ語訳などは2冊も同じ本がある始末でした!)
 もう1つは,聖職者で神秘思想家であったトマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis、1379 - 1471)からの引用です.「ひばりやナイチンゲールのように歌うことができないのならば,からすや沼地のかえるのように歌いなさい。からすやかえるたちは、神さまのお与えになったがままに歌っているのだ」(Kunt gij niet zingen als de leeuwerik en de nachtegaal, zingt dan als de raven en de kikvorschen in den poel, die zingen zuoals God het hun gegeven heeft.)
 中公文庫の堀越孝一訳からは原著の面倒な注が省かれているので,この印象的な言葉の元を探すのはちょっとした手間がかかります.トマス・ア・ケンピスの主著『キリストにならいて』(De imitatione Christi)にはありません.しかし,カラスやカエルであることに満足して生きようではないか、というこの言葉は,(カラスやカエルのファンの方には異論があるかも知れませんが)いかにも,質素で堅実な生活・生き方・信仰を訴えた「諦めと慰めの著書」の著者に相応しい譬え話の教訓だと読めてしまいます.
 ヨーロッパ文化史上の三大「慰めの書」があり,古来名だたる政治家や聖職者の枕頭の書であったと言われているのが,マルクス・アウレリウス『自省録』,ボエティウス『哲学の慰め』,そしてトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』であります.さすがに3冊とも岩波文庫に入っています.確かに辛い一日の終わり,悶々として寝付けぬ床で手に取ると,慰めが得られるものばかりです.
 ところが,原文をたどると,必ずしもそういう意味合いばかりの言葉ではなかったらしい.実際カラスとカエルのイメージが面白すぎて,『中世の秋』の文脈すら見失いがちですが,これは,やがてルネサンスによって打ち破られる中世末期の「ちまちました,信心深い」芸術を論じる箇所に引かれている言葉です.
 トマス・ア・ケンピスの著作は20世紀の初めに M.J. Pohl によって7巻の全集にまとめられ,これがスタンダードワークになっているようです.カラスとカエルの言葉は,その第6巻に出てきます.(『キリストにならいて』は第2巻です)
 トマス・ア・ケンピスは小さな修道院の副院長として生涯過ごした人で,新人教育係をしていたらしい.その新人研修で行った説教が集められています.第6巻に入っているのは,お御堂での礼拝の仕方、その心構えについてのお話です。全部で30本のお説教があります.カラスとカエルの言葉はその28本目に出てきます.
 教会のお御堂でのおつとめ,礼拝には歌が欠かせません.どの宗教でもそうですが,キリスト教の祈りも歌と切り離せない関係にあります.聖職者や修道士たる者,祈祷文を暗記するのと一体で,楽譜を読み,歌う訓練は欠かせないのです.
 しかし,生来歌の苦手な人はおります.公教育における音楽の授業が歌唱中心で,多くの生徒には極めて困難で苦痛であるのは,宗教的な名目や大義を切り捨てたまま,教会の音楽訓練の方法がそのまま残存しているからでしょう.
 トマス・ア・ケンピスは新人教育のベテランですから,生徒さんたちに向けて無理を言わず,励まして伸ばす手法を採ります.―――天使たちから神さまはいつも完璧で素晴らしい歌声で賛美を受けている.あなたたちが,天使たちのように完璧に美しく歌うことが出来なくても,信仰心が大事である.口で歌えないのなら,心の声で神に歌いかけなさい.しわがれた聞き苦しい声をしているとしても,祈るという大切なおつとめを止めてはなりません.上手に歌っている同胞の祈りの歌声を喜びなさい."Si non vales tam pulcre cantare sicut alaudae et philomenae; canta et lauda lugubre sicut corvi et ranae in palude: qui cantant sicut Deus dedit et natura concedit."「もしあなたがヒバリやナイチンゲールのように美しく歌えないのなら,カラスや沼地のカエルのように悲しげに賛美の歌を歌いなさい.カラスやカエルは,神が与え,自然が許すように歌っているではありませんか」
 だがこれは,単なる励ましの言葉ではないと思うのです.賛美歌において万物は平等であり,自然の多様さは人間の知る技術の巧拙を越えているのだ,というのです.
 聖歌隊を務めたことのある人なら誰でも知っていることですが,賛美歌というものは,第1に聖歌隊が決して「酔いしれて」歌ってはならない.法悦の感情に浸るべきなのは会衆であって,聖歌隊はそのお手伝いをする役割に徹しなくてはならない.第2に聖歌隊の中で音楽が完結してはならない、そのような発声をしてはならない.自分の体を楽器にするのではなく,お御堂全体に向けて響きを発するようにする.お御堂の全体が一体となって賛美の歌を歌っているようにするものだ.こういうことを叩き込まれます.共同体を作って賛美の歌を歌うのは,一人の「天才」,一人の「有能」な者が引きずり回し,かき回すためではない,そうきびしく教えられます.後世の「天才信仰」や「おれさま教」「近代的自我(のなんちゃら)」に基づく芸術観とはおよそ敵対する考え方です.近代に向けてこれは大きな議論になっていきます.
 しかもこれは,芸術一般の話ではなくなります.ヒバリのように歌えず人に喜んで貰えない身であっても,ゴミをあさって嫌われるカラスや,簡単に踏み潰されるカエルのような存在でも,するべきことをする時があります.政治的行動に慣れない身なのに勇気を出し,暴力の犠牲になってもユダヤ人の同僚への迫害に抗議して,寿命を縮めた,ホイジンガのように.