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これは非人称受動表現?

モーゼルの『サリエリ伝』講読中ですが,174頁に難解な構文が出てきて困惑してしまいました.ドイツ語の先生方にお尋ねします.

Dafür aber wird Salieri's Name glänzen, und sein Trofonio, seine Danaïdes, sein Tarare, sein Axur u.s.w. werden als unvergängliche Vorbilder echt dramatischer Musik geehrt werden, wenn jene Componisten, welche jetzt die Lieblinge des Tages sind, und von denen gerümt wird, »daß die Welt sie auf den Händen trage,« mit der Mode, der sie gehuldigt, verschwunden, und samt ihren Arbeiten schon längst vergessen sind.

ーーーこれに対してサリエリの名前は輝き続け,彼の『トロフォニオ』,『ダナイデス』,『タラール』,『アクスル』などは純粋な劇音楽の不朽の規範として称えられるであろう.当時は時代の寵児であり,「世間が甘やかしてるんですよ」と称えられたああいう作曲家たちの方は,彼らが臣従した流行と共に消え失せ,彼らの作品共々とっくに忘れ去れたのだが.ーーー

下線部の箇所が難解でした.この von は受動態のいわゆる「動作主」ではなく,「~について,~関して」という意味で使われており,gerühmt wirdは「褒めそやされた」という非人称受動であって,引用符以下は「~のように」と緩やかにつながっているだけ,と解釈しました.因みにこの引用にはモーゼル自身の注が付いていて,August Friedrich Ferdinand von Kotzebue (1761-1819) の "Die Stricknadeln" (1805) 第2幕第6場のLandrätinの台詞からだそうです.
この引用部分を3人称単数の「主語」としてgerümt wirdにつなげるのは,意味の上からも,rühmenという動詞の用法からも無理なようです.そうなると,他動詞のrühmenにこのような非人称受動表現があり得たということでしょうか.(gehuldigtの次にはhattenが省略されています.200年位前のドイツ語では従属節の中でhaben/seinが省略されることがしばしば見られます)
音楽史に詳しい方々にうかがうと,ライバルであったチマローザの名前が全く出てこないなど,「党派性」の強い,偏った記述ぶりであるようですが,何しろ1冊しかない同時代の評伝なので,がんばって講読を続けております.同好の方,どうかお知恵を貸してください.

モーゼルのテクストの誤植?

モーゼル『サリエリ伝』の中に,不思議な箇所があって困っています.フランス語版「ダナオス」をドイツ語版に改作する話ですが:

Der Anfang des dritten Actes ist von jenem des Originals ganz verschieden; nach einer kurzen Instrumental=Einleitung folgt eine neue Scene der Hypermnestra und des Pelagus, worin sie sich verabreden, auf welche Weise sie das Herz des Danaus zu rühren, und ihn von dem schrecklichen Vorsatze, seine Neffen durch seine Töchter, ihre Gattinnen, ermorden zu lassen, abbringen wollen. (176)

〝第3幕の初めの部分は,原作とは全く違っている.短い器楽の導入の後,ヒュペルムネストラとペラグスの新しい場面が続く.そこで彼らは,どうやってダナオスの心を動かし,甥たちを,その妻である自分の娘たちによって殺害させるという恐ろしい考えを改めさせるか,相談するのである.〟

この zu は必要ないのではないか,疑問が解けません。どなたか助けて下さいませんか.

話法が総出演!

モーゼル『サリエリ伝』に更にひどい文例があったので紹介します.176頁から177頁にかけてのパラグラフが一文で成り立っていて前半の仮定節の中の,そのまた名詞節に話法が3つとも出てきます:

Wollte man das Spektalel des Traumes aufopfern, oder annehmen, daß Danaus ihn wirklich hatte, und dieser Traum bloß den Zusehern auf die in so vielen Balletten schon da gewesene Art versinnlicht würde, der Bekehrunges-Plan Hypermnestra's aber nur in dem fernen Mordgeschrei und der falschen Nachricht von der Ermordung der jungen Gatten bestanden habe; so fiele das Anstoßige der deutschen Bearbeitung dieser Oper (die übrigens in dichterischer Hinsicht nicht vorzüglich ist) hinweg, und dieses herrliche Werk, mit Fleiß und Würde ausgeführt, würde auf jeder deutschen Opernbühne, welche dramatische Musik nicht ganz fremd geworden, die größte Wirkung hervorbirngen.(176f)

(ダナオスの)夢が目の前で演じられるのを諦め,その代わり,ダナオスはその夢を本当に見ました(=直説法),そしてこの夢は多くのバレーでよくあるやり方で観客に感覚的に伝えたことになった(=接続法2式),またヒュペルムネストラの(ダナオスを)回心させる計画(の実現)は,ただ単に遠くから叫び声が聞こえ,若い夫たちが殺されたという偽の知らせによってのみ示された(=接続法1式)ことにする,という演出を受け入れて良いというのなら(仮定節ここまで),このオペラのドイツ語改訂版の悪いところはなくなるし,がんばってちゃんと演じれば,作品自体は優れているのだから,この間まんざらこういう劇音楽をまったく受け付けないわけでもなくなったどのドイツのオペラ劇場でも,大きな反響を呼び起こしたかもしれないが(まあそうはならないよね).

道を踏み外したような和訳の試みで申し訳ありません.私にはなかなか手強い相手でありました.