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こうの史代「リーゼと原子の森」

 久しぶりに分厚いマンガ雑誌を購入しました.『コミックゼノン』12月号です.
 マンガだけでなく,昔から雑誌が苦手で,興味のある連載は単行本になるのを待ってからまとめて読むことが多かったのですが,たまにこういう風に待ちきれずに買うことがあります.お目当ては,読み切りでこうの史代が発表した「リーゼと原子の森」です.Lise Meitner (1878-1968) の没後50年を記念して発表されたものだそうです.

 まだまだ女性が高等教育を受けることも難しかった100年前に,リーゼ・マイトナーは言い知れぬ苦労をして1906年オーストリアで女性として史上2人目の博士号(物理学)を取り,1926年にベルリン大学においてドイツで女性として初めての物理学の助教授に任命されました.けれども1933年にナチスが政権を取ると,リーゼ・マイトナーはユダヤ人であったため,教授職を解かれるなど迫害を受け,1938年スウェーデンに亡命します.核分裂を実質的に解明したのは彼女なのだそうですが,かつての共同研究者がノーベル賞を受賞しても,複雑な事情から彼女はノーベル賞を受けることがありませんでした.ただしその他の名誉顕彰は限りなく,例えば原子番号109元素は彼女の名にちなんでマイトネリウムと命名されています.晩年はイギリスに渡り,ケンブリッジ大学の物理学教授であった甥のオットー・フリッシュの傍で晩年を過ごします.お墓も同地にあるそうですが,有名な墓碑銘はこの甥が起草したものだそうです:

 Lise Meitner: a physicist who never lost her humanity.

 『夕凪の街 桜の国』や『この世界の片隅で』の作者こうの史代が,このような女性物理学者を取り上げるというのだから,気になって仕方がありません.
 読んでみると,例によって穏やかで優しい筆致と語り口でなんだか物足りないような気がします.なまじドイツ言語文化やその歴史に係わる仕事をしていると,1930年代の重苦しいベルリンの雰囲気,絶望と恐怖に顔をこわばらせて逃げ惑う最高の知性や教養や良心,野蛮に砕かれていく文化と正義―――そういったものがリアルに描かれていないと物足りないように思えてしまうのです.
 さらりとそういう経過を流したこの作品では,スウェーデンに亡命して,失意と苦労の中でも科学研究への愛と信頼を失わなかったリーゼの姿を,おとぎ話に出てくる北欧の森の住人トロルたちとの交流を通じ,予想だにしなかった描き方をするのです.スウェーデンで亡命生活を送っていたときリーゼ・マイトナーは既に60代でありました.確かに彼女はこの作品に描かれたように,知性や精神の若々しさを何時までも失わなかった人であったようです.
 こうの史代の作品は,自然に何度でも読み返すことになります.女性として苦労し,ユダヤ人として苦労し.核兵器につながる発見をしてしまう研究者としての運命を負わされ,現代の科学研究が抱え込んだ諸問題のるつぼに立たされ,振り回され,奮闘したリーゼ・マイトナーにとって,そして彼女の生涯から学ぼうとする私たちにとって,一番大事なことは彼女がこの作品の中でトロルと交わした会話の中にあるのだと,やがて読み返しながら私たちは気付くのです.

 しかしやはり,長篇でも読んでみたいと思います.読者の単なるわがままです.ついでなら,たとえば Clara Immerwahr(1870–1915)のことなども.