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牛飼いの歌

 南フランスのラングドック地方に,中世後期,アルビジョワ十字軍が終わった頃から歌われ始めたという謎めいた民謡があります.オック語で "Lo boièr (Le bouvier)"「牛飼い(あるいは,貧農)の歌」という歌です.多少の異同はあるものの,オック語では大体次のような歌詞だそうです.アルビジョワ十字軍で滅亡させられた中世最大の異端カタリ派の暗号であったが,奇怪な母音のルフランを含めて,もう誰もその意味を知るものはないそうです.

Quand lo boièr ven de laurar (bis)
Planta son agulhada
A, e, i, ò, u !
Planta son agulhada.

牛飼いが仕事から戻り,牛飼いが仕事から戻り,
鋤を突き立てた,
ア・エ・イ・オ・ウ
鋤を突き立てた.

Trapa (Tròba) sa femna al pè del fuòc (bis)
Trista e (Tota) desconsolada...

妻が火のそばにいて,妻が火のそばにいて,
悲しみ憔悴していた,
ア・エ・イ・オ・ウ
悲しみ憔悴していた.

Se sias (Se n'es) malauta diga z-o (bis)
Te farai un potatge (una alhada).

病気なのなら言ってくれ,病気なのなら言ってくれ,
ポタージュを作ろう,
ア・エ・イ・オ・ウ
ポタージュを作ろう.

Amb una raba, amb un caulet (bis)
Una lauseta magra.

カブとキャベツと,カブとキャベツと,
やせたヒバリで,
ア・エ・イ・オ・ウ
やせたヒバリで.

Quand serai mòrta enterratz-me (rebomb-me) (bis)
Al pus fons (Al prigond) de la cròta (cava)

私が死んだら私を埋めて,私が死んだら私を埋めて,
地下室の床に,
ア・エ・イ・オ・ウ
地下室の床に.

Los pés virats (Met-me los pès) a la paret (bis)
La tèsta a la rajada (Lo cap jos la canela)

足を壁に向け,足を壁に向け,
頭は蛇口に向けて,
ア・エ・イ・オ・ウ
頭は蛇口に向けて.

Los pelegrins (E los romius) que passaràn (bis)
Prendràn d'aiga senhada.

巡礼者がやって来て,巡礼者がやって来て,
聖なる水を取るだろう.
ア・エ・イ・オ・ウ
聖なる水を取るだろう.

E diràn « Qual es mòrt aicí ? » (bis)
Aquò es la paura Joana.

そして『ここに埋葬されているのは誰ですか』と聞くだろう,
そして『ここに埋葬されているのは誰ですか』と聞くだろう,
それは哀れなジャンヌだ.
ア・エ・イ・オ・ウ
それは哀れなジャンヌだ.

Se n'es anada al paradís (bis)
Al cèl ambe sas cabras.

彼女は天国に行った,彼女は天国に行った,
雌ヤギを連れて天に昇った,
ア・エ・イ・オ・ウ
雌ヤギを連れて天に昇った.

現代フランス語訳は次の通りだそうです:
Quand le laboureur revient de labourer (bis)
Il plante le soc de sa charrue (l'aiguille) / ou son aiguillon
A, e, i, o, u !
Il plante le soc de sa charrue / son aiguillon.

Il trouve sa femme auprès du feu (bis)
Triste et affligée...

Si tu es malade dis le moi (bis)
Je te ferai un potage.

Avec une rave, avec un chou (bis)
Une tranche de lard maigre ( 'lauseta' veut également dire 'alouette' ).

Quand je serai morte enterrez-moi (bis)
Au plus profond de la cave

Les pieds tournés vers le mur (bis)
La tête sous le robinet (du tonneau)

Quand les pèlerins passeront (bis)
Ils prendront de l'eau bénite.

Et diront « Qui est mort ici ? » (bis)
C'est la pauvre Jeanne.

Elle est allée au paradis (bis)
Au ciel avec ses chèvres.

どこか不気味で,胸に染み入るような哀愁のあるメロディーです.合唱でシンセサイズしてみました.

https://youtu.be/GGuzNYHQum4

色々美しい編曲が公開されています.しかし The Oxford Trobadors の演奏がリアルなのだろうと思います.

https://www.youtube.com/watch?v=NhFAkrWXeMM

数詞の話

 語学の教員としての念願だったことの一つに,数詞についての全てをまとめた教材を作ることがありました.コロナ禍の下でのオンライン授業のために,これまで使ってきた教材を全て見直す中で,昨年ラテン語について,あのややこしい暦法を含め,ようやくまとまった教材を作ることができました.昨日今度は現代ドイツ語の数詞をまとめることができて,ほっとしています.
 日付表現や時刻表現,数式の読み方の基礎の他に,分数詞(Bruchzahlen)とか数副詞(Zahladverbien),配分数詞(Distributivzahlen),倍数詞(Vervielfältigungszahlwörter),類数詞(Gattungszahlwörter),反復数詞(Wiederholungszahlwörter)など,それから「小数・分数・パーセンテージと動詞の数の呼応」についてとか,なかなかまとめて学ぶ機会がありません.ああ,こうやって書いている間に,いくつか抜けている点を発見してしまいました.今晩早速作り直しです!

 分数をなぜ序数詞によって表すのか,恐らくラテン語の語法から来たのではないかと思います.
 ラテン語には「部分」pars, partis f. を使って,分数に2つの言い方がありました.「2つの部分」duo partesと,tertia pars「3番目の部分」です.「2つの部分」duo partesとは,「3つに分けた残りの2つ」,つまり2/3を表します.「3番目の部分」tertia parsとは,「3つに分けた最後の1つ」,つまり1/3を表します.
 なぜこういう考え方をするのか,なかなか理解できませんでした.小さい頃から数学的な,普遍的な見方を叩き込まれているので,そういう見方の「無駄さ」に気づけないでいたのでしょう.例えば,7つに分けて3番目の部分とか,11に分けて3番目の部分とか,なるほどよく考えてみると,日常的にそんなに必要はありません.同じく,7つに分けたもののうち,2つが残っている,とか,11に分けたうちの,3つが残っている,というのも,それほど必要な表現手段でもないのです.何かを部分に分割した場合,私に一番関係のあるのは,私の取り分になる1部分でしょう.必要があって分割したのだから,私の取り分を取った残りもあっという間に引き取り手が決まるはず(もしくは決まっているはず)です.だからラテン語では分割した際に,最後の1部分と,残りの部分に分けて考えることから出発しているのです.自ずと分母は明らかだというわけです.土木建築にあれだけ技術水準の高かった古代ローマ人がこれでトラブルなく仕事を進めていたのだから,これで良いのでしょう.

 ドイツ語史・ゲルマン比較言語学の分野の俊英で,若くして亡くなった飯嶋一泰先生が,その早すぎる晩年にゲルマン諸語の数詞について関心を持っていたのを思い出します.該博な知識を軽やかに整理した論文を渡してくれながら,こんな風にまとめてみたんだけど,どう思う?意見を聞かせてよ,と気負いもなく仰る,その口調がまだ耳に残っています.出来の悪い後輩の私なんかにまで,きさくに声を掛けて下さって.せっかくいただいた論文なのに,まだ読みこなせてもおりませんよ,飯嶋さん.定年近くなって,やっとこんな基礎的な教材をまとめられたばかりです.