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The Fisher King.

 テリー・ギリアム監督の『フィッシャー・キング』という映画が1991年に公開されていて,主演のロビン・ウィリアムズがゴールデングローブ・主演男優賞、共演のマーセデス・ルールがアカデミー助演女優賞を取るなど,多くの賞を獲得しています.けれども日本では全く話題になりませんでした.私もレンタルビデオで始めて観た記憶があります.
 無闇にとんがった反社会的な発言で人気のあったラジオパーソナリティが、片思いに悩む,メンタルに問題を抱えた男性ファンを無責任にけしかけると,そのファンは言葉を真に受け,自分を相手にしてくれない女性のいる,上流人士や教養ある人々の集うレストランで銃を乱射し,無差別殺人事件を犯します.ラジオパーソナリティはショックを受け,責任を問われ失職し,無気力に社会の片隅で生きるようになります.この事件で目の前で愛する人を殺された中世ドイツ文学を研究する大学教授が,精神に変調を来し,やはり職を去り,ホームレスとして生きています.この二人が出会い,謝罪と許しを与え,和解する物語なのですが,それがアーサー王伝説・聖杯伝説の「フィッシャー・キング」の物語を下敷きにしているのです.
 通り魔殺人の被害者となって精神に変調を来し,自分は聖杯を探求する使命を与えられた騎士であると思い込む、中世ドイツ文学が専門の大学教授がドラマの主人公なのですが,この主人公に感情移入できる人間は日本に何人もいません.私も,自分の他に数人辛うじて名前が思いつくだけです.その人達が私のようにロビン・ウィリアムズの出る映画を好んで観るかというのはまた別の問題だから、さらに可能性は狭まります。どだい日本で理解されるのが無理な映画ではありました.
 ビデオの字幕の付け方にも,大変な誤解がありました.重症を負って動けず,座り込んで釣りをすることしかできない王に向かい,聖杯の騎士たる者は先ず第一に問いかけねばならないことがあります.それを忘れると,散々の苦労をして聖杯を手にした後,さらに前の失態を取り戻すために,別の言葉を王に向かって言わねばなりません.宝探しの話ではない.立派な騎士になるには,2つの言葉を口にできなくてはならない,そういう物語なのだと思います.
 第1には,困った人がそこにいるなら,「お困りのようですが,何か私にできることはありませんか」と言うのです.
 第2には,幼稚で粗野な人格のせいで第1の言葉が口にできなかったことを,「お許し下さい」と謝罪するのです.
 心から口にする「許して下さい」"Forgive me !" が,この物語のキーワードなのです.失意の元ラジオパーソナリティが傷心の元大学教授に向かって口にするこの言葉がテーマなのです。本当にさりげない演出で,見落としてしまいそうになりますが.ビデオの日本語字幕には,正しく反映されていませんでした.

 森の中で野生児に育てられてしまったパルツィファルが,長い遍歴と冒険の旅を経て立派な聖杯の騎士に成長するヴォルフラム・フォン・エシェンバハの叙事詩『パルツィファル』は,独特の難解な文体と複雑な構成で読みづらく,今に至るまで私は苦手です.第二次大戦後ドイツの学会は一時期,「罪を認め謝罪する」という『パルツィファル』のテーマにのめり込んだ観がありました.今の若い世代の研究者はどう読んでいるのでしょう.騎士道というものは,「宮廷風恋愛」と同じく,暴力をいかに飼い慣らし,無害化するか,という問題を根本に抱えています.中世の物語ですが,現代でも重大な問題です.

 こんなことを思い出したのは,院生との自主ゼミで,ディズニーの実写版『美女と野獣』を観ることになったからです.ああ,これは新たな騎士道の話だったのだと思いました.生命のバラとやらは,本当はどうでもいいのです.ベルの父親を許し,ベルを許し,解放し,自分と一緒に物質化の呪いをうけた家臣達に謝罪する,そこがあの野獣の解放の本質です.
 「救い主」は,この度は物言わぬ乞食女としていつも近くにたたずんでいました.「主は盗人の如く来たる」ではないが,哀れな物乞いとしてそこにいます.貧しいラザロを女性にしたわけでしょうか.であれば,暴力に取り組む現代的課題を,きちんと正面から捕らえた実写化であったと言えると思います.暴力の犠牲者は,女性と子供,マイノリティですから.

 学生や院生や若い同僚諸氏の言うことに素直に従っていると,私のような者でもラザロの犬をなでさせてもらえるようです.勉強してもちっとも身につかなかった『パルツィファル』のことを,まさかこんな機会に思い出すことになるとは夢にも思いませんでした.学生のみなさん,ありがとう.