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『第七の十字架』

 来週1月12日(土)から日本で公開される,ドイツのクリスティアン・ペッツォルト監督『未来を乗り換えた男』が話題になっています.原題は『トランジット』で,アンナ・ゼーガース(1900-1983)の同名の小説(1944)をもとにしています.ナチスの迫害を逃れてアメリカに渡ろうとする亡命者たちの苦難をカフカ風の不思議な物語にした面白い小説です.昔は「新集 世界の文学」(中央公論社)第42巻に翻訳が入っていましたが,今日とても手に入りにくくなっています.
 アンナ・ゼーガースは1970年代まで日本でも盛んに翻訳出版され,よく読まれたものですが,今はほとんど手に入りません.その中で,代表作である『第七の十字架』が昨年岩波文庫に入ったのは有り難いことでした.最新の研究をもとにした詳しい注が付いています.
 『第七の十字架』はナチスの強制収容所から政治犯7名が脱走するスリリングな物語ですが,さながら重厚な「大脱走」を観るようで,無類の面白さです.ゼーガースが亡命中に書かれ,ドイツでは第二次大戦後まで発禁でしたが,最初に英訳がアメリカで出版されて評判になり,映画にもコミックにもなり,ゼーガースの名を世界的に有名にしました.
 このコミック版もドイツで再出版されました.コミックというよりは,絵物語です.ドイツ・ユダヤ系の画家 William Sharp が絵を描いています.

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 私の学生時代は中学から大学卒業まですっぽりと1970年代にはまりこみます.あの時代,翻訳の外国文学を読みふけって過ごした身として,昨今の外国文学の翻訳出版と受容の状況を見ながら残念に思うことが2つありました.1人は『西部戦線異状なし』のエーリッヒ・マリア・レマルク、もう1人は『第七の十字架』のアンナ・ゼーガースの翻訳作品が全く手に入らなくなり,これらの作家の作品が論じられることがすっかり絶えてしまったように見えることでした.だからこの度ゼーガースの『第七の十字架』が、最新の研究成果を紹介した詳細な解説を付して岩波文庫に入ったのはたいへん喜ばしいことだと思っています.―――ただ,ゼーガースも岩波文庫に入るような「古典」になったのだと思うと多少感ずるところはありますが.

 私たちの頃は,中学生くらいで講談社新書の藤田五郎『ドイツ語のすすめ』を読んで夢をふくらませ,大学で勇躍本格的にドイツ語やドイツ文学を学び始めたものですが(今この書は品切れで、福本義憲『はじめてのドイツ語』へと更新されています),この本の中で『第七の十字架』が面白いと推薦されていたのが,確かゼーガースの名を知ったきっかけでした.
 全く毛色の違うこの二人の作家の名をあえて並べるのは個人的な趣味と読書経歴によりますが,戦争に反対しファシズムと闘う,骨太で読みでのある物語を遺したという点で共通するものがあると思っています.
 レマルク(1898-1970)はゼーガースより2歳年長なだけであり、2人は交流こそなかったようだが,同世代のドイツ人です.共に2つの世界大戦を敗戦国ドイツの人間として潜り抜け,文筆活動を通じて軍国主義やファシズムと闘い,苦しい亡命生活を耐え抜いたのです.ゼーガースの『第七の十字架』も,レマルクの『西部戦線異状なし』や『凱旋門』も世界的ベストセラーになり,映画化されて多くの観客を集めました.
 ゼーガースは,日本でいうならさしずめ芥川賞に当たるクライスト賞作家であると同時に,若いころからの共産党員であり,第二次世界大戦後,今はなくなった旧東ドイツ,ドイツ民主主義共和国に亡命先のメキシコから「帰国」し,旧東ドイツの「社会主義体制」に生涯にわたり希望と信頼を抱き続けました.一方これに比べればレマルクには政治性が乏しく,大衆性の強い作風に似合いアメリカでの実生活も華やかであったそうです.
 しかし,あの激動の時代のヨーロッパを生きた当事者の手によって作り出された反戦平和の文学,レジスタンス・反ファシズムの文学,亡命文学について日本の読者が最も多くのイメージを得たのはこの2人の作家からではなかったかと私は思います.それまでの日本文学が知らない,日本文学の歴史からはなかなか生まれ出なかった文学のかたちであったと思うのです.
 このような作家が熱っぽく翻訳紹介され,論じられ,読者に受け入れられていく戦後日本の文化的な流れは,すでに1970年代の後半から徐々に弱まっていったと,岩波文庫版『第七の十字架』の解説にあります.これは,第二次世界大戦における敗北と旧国家体制の滅亡という歴史的経験を「抱きしめて」,そこからつきぬ創造性を汲みだしていた戦後日本文学が,政治情勢や世代交代を通じて大きく変容していく時期と重なるような気がします.
 近年,日本の大学における人文科学研究をめぐる状況が厳しく,将来に希望を見いだせなくなって後継者となる若者が離れ,翻訳紹介や研究を行う人材も枯渇しつつあります.ゼーガース文学の手堅い研究や入門紹介の文献が1980年代以降見られなくなりました.
 そして何と言っても1980年代の末に「社会主義」諸国の国家体制が連鎖的に崩壊する中で,旧東ドイツへ「帰国」した亡命作家たちも急速に顧みられなくなりました.ゼーガースに対しても(死後ですが)一時期批判がありましたが,直ぐに立ち消えになり,反ファシズム・亡命文学の歴史に残る大作家として評価が定まり―――試験問題やレポートの課題になっているようです.

 翻訳も含め,アンナ・ゼーガースの資料をぼつぼつ集めておりましたら,日本・DDR友好協会連絡会議(編)『国際連帯』第38号(1983)が手に入りました.アンナ・ゼーガースの死に際して,特集を組んでいます.アンナ・ゼーガースを中心に現代ドイツ文学研究のホープでありながら,若くして亡くなった元東大助教授藤井啓司氏が,「夢見ること・信ずること」と題してゼーガースの作品の紹介文を寄稿しています.彼を覚えている人々のために紹介しておきます.

直男癌

 少し古い話になりますが,昨年11月28日の毎日新聞夕刊で,田中和生が文芸時評でモブ・ノリオ「渡部直己はただ一匹か数千万匹か~《直男癌=Straight Man Cancer》の自己診断と根治の模索」(『すばる』2018年12月号)を取り上げ,高く評価していました.文芸評論家・元早稲田大学教授渡部直己が起こしたセクハラ事件について,文学者や学者が正面から発言したほとんど唯一の例だというのです.痛ましいことに被害者の女子学生が結局大学院退学に追い込まれているのですが,モブ・ノリオがその被害者に最後まで寄り添おうとしている姿勢が心に残るというのです.急いで私も読んでみたのですが,田中和生の評にも,モブ・ノリオの文章そのものにも感銘を受けました.
 「直男癌」という言葉を,この時に初めて知りました.2014年頃から使われ始めた,中国語のネットスラングなのだそうです.今ではもう英語でも流布している様子です.モブ・ノリオが上の文章で「直男癌」についてうまくまとめていて,異性愛指向の男性特有の「根治し難い生活習慣病的な性差別的傾向」を批判する概念だそうです.これも近年使われるようになった "mansplain" (相手が女性とみると彼女の専門性などに関わりなく男の自分よりものを知らないだろうと頭から馬鹿にしてかかり,えらそうに,しかし往々にしてとんちんかんな説明をしようとする男の側の滑稽な態度)はさしずめこの「直男癌」の症状の1つということになりましょうか.
 モブ・ノリオの,ラップ風の特異な文体は,私などには話の筋が読み取りにくく,読みやすいものではなかったのですが,セクハラ犯罪例を大人の男が考えるなら,当然膨大な自己批判を含む入り組んだ話になるのが当たり前で,こういう文体に必然性があるのだと私なりに納得いたしました.
 あと余すところわずかですが,私の職場には女性の同僚も,女子学生も,また外国籍の同僚も留学生も多いので,セクシズムやレイシズムに対してだらしない反省では生きていけません.「直男癌」は治りにくい病ですが,数千万匹のうちの一匹として,症状緩和に日々努めていきたいと思います.

ニーベルンゲン最大の惨劇

 「これがニーベルングの厄災である」"daz ist der nibelunge nôt."と締めくくられる,ドイツ中世の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』は本当に血なまぐさい物語で,「かくて死すべき者は皆たおれた」"Dô was gelegen aller dâ der veigen lîp."ところまでいって,敵も味方もなく嘆き悲しむ結末を迎えます.(気になる方もおられるでしょうが feige (veige) は古くは「死すべき定めの」「呪われた」というような意味であったようです)
 ドイツ語史やドイツ中世文学の講義・演習で何回も取り上げてきましたが,私にはどうしても,『ニーベルンゲン』は英雄ジークフリートの物語とも思えないし,ハーゲンとクリームヒルトの対決の物語とも思えません.ワーグナーがほしいままに改作した歌劇の方でご存知の方が多いと思いますが,ここでお話ししているのは12世紀の原作の方です.今年度,授業日程の最後に時間が少し余ったので,悩んだ末にとうとう決心し,一番気になっていたところを講読のテキストに追加で取り上げてみました.愉快な授業にはなりません.

 一体クリームヒルトは物語の最後に誰の手で殺されたか.味方として一緒になってブルグンド側と戦っていた老将ヒルデブラントによってです.クリームヒルトが夫の仇ハーゲンの首を打ち落としたとき,ヒルデブラントはこう言います:

 「『なんたることだ』と侯は言った.『突撃しても楯をとっても最良の戦士たるものが,女の手にかかって命を落とすとは!私は彼の敵ではあるが,こんなことは大きな苦痛である.』」

     "«Wâfen», sprach der fürste, «wie ist nu tôt gelegen
     von eines wîbes handen der aller beste degen,/
     der ie kom ze strume oder ie schîlt gegtruoc!
     swie vîent ich im wære, ez ist mir leide genuoc.»" (2374)

 こうして怒り狂ったヒルデブラントによって,クリームヒルトは切り裂かれて殺されます.かといってクリームヒルトの夫エッツェルはヒルデブラントに復讐するわけではなく,ヒルデブラントと一緒になって多くの一族が死んでしまったことを嘆き悲しむのです.

 男同士の殺し合いにおける敵味方より,女の手で殺されたかどうかが上位の判断基準になるというのです.このクリームヒルトの最期こそ,これまで物語の中で語られてきたはずの一切の大義名分を覆すものであるように思えます.

 前半のもっと悲惨な場面でも同様です.ジークフリートの手を借り、詐欺のような手段で「力比べ」に勝ってブリュンヒルデを妻にしたグンター王は,けれども初夜の床で思いを遂げることができません.力でも負け,ぐるぐる巻きに縛られて,一晩屈辱的に過ごします.仕方ないので,またジークフリートの力を借り,なんと二人がかりで力強いブリュンヒルデを押さえつけ,グンターが強姦に成功するのです.えんえんと何行もその様子が描写されます.さすがのジークフリートも投げ飛ばされますが,ここで負けたら大変だ,と思うのです.

「『これはいかん』と戦士は考えた.『ここで私が一人の娘のせいで命を失うと,これまでそんな風ではなかったような女たちがみな,これからはずっと自分の夫に対し傲慢な気持ちを抱くことになってしまう.』」

     "«Owê», dâht' der recke, «sol ich nu mînen lîp»
     von einer magt verliesen, sô mugen elliu wîp
     her nâch immer mêre tragen gelpfen muot
     gegen ir manne, diu ez sus nimmer getuot.»”(673)

 何よりも大切なのは,戦いに勝つことの一番の意味は,男の支配を守ることだというのです.(結婚前なので wîp ではなくmagt と呼ばれています.また gelp(f) というのは元々光り輝くという意味で,そこからこの時代には「思いあがった」というような意味も表しました)

 この凄惨な「戦い」の末に誇り高いブリュンヒルデは負けて組み伏せられ,グンター様,あなたが女を支配する力のある方だと分かりました,と言うのです.
 こんな凄惨な場面がありましょうか.

 ミンネザングや『トリスタンとイゾルデ』や,フランス渡りの恋愛重視,女性が活躍する物語が幅を利かす「風潮」が気に入らない一群の人びとが(今となってはどこの誰だったか不明なのですが)、意識的に擬古的な素材と文体で『ニーベルンゲン』を作ったと言われています.

 私はこの物語がとうとう好きになれませんでした.そのままこの歳になってしまいました.別に歳を取れば君もわかるようになるよ,とは言われないで済みましたが.

公開講座のお知らせ

 文学部と共催で,公開講座「日本文化と国際社会:国際的人材を目指す」を開催します.対象は高校生です.タイトルを見て,またそのての話か,と思うかもしれません.若い特任研究員の先生お2人が,きっとその悪しき期待を裏切ってくれますから,楽しみにしてください.

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