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オルコットの「煽情小説」・ナイチンゲールの『カサンドラ』

 尊敬する先生方がSNSで面白そうな作品を紹介しておられるので,つい手に取ってしまいました.ルイザ・メイ・オルコット(大串尚代訳)『仮面の陰に あるいは 女の力』(幻戯書房、2021年).
 文学史上「煽情小説」というジャンルが19世紀にあったことを初めて知りました.現代ならスリラーとかサスペンスとかいうものでしょう.ピカレスク・ロマンと呼んでも良いと思います.『若草物語』で名高いルイザ・メイ・オルコットが,自らの作品の登場人物で,作家となる次女のジョーのごとく,駆け出しの頃は変名で,犯罪や悪徳をどぎつい(当時のレベルで)筆致で書いた,売らんかなの低俗な(当時のレベルで)小説を書き散らしていたのだそうです.懇切丁寧な「訳者解題」によれば,「あの当時の暗黒時代には、完全無欠なアメリカ人でさえも、こうした屑のような作品を読んでいた」と『若草物語』の中にもあるそうです.なので,書く方も読む方も名誉なこととはされなかったジャンルの作品だが,よく売れたらしい.
 タイトルがそもそも露骨ですが,内容はそのままです.イギリスを舞台に,貧困の中に生まれ育った若い女性が,才覚を頼りに,ありとあらゆる手段を用いて「お家横領」に成功し,ついに「レディ」と呼ばれる裕福な貴族の身分を手に入れる物語です.いやあ,面白かったですよ,こういう「屑のような作品」は!
 ここでオースティンやブロンテ姉妹の作品を思い出すのが正統派なのでしょうが,私が真っ先に思い出したのは,ルース・レンデル『ロウフィールド館の惨劇』(角川文庫、1984)("A Judgement In Stone" 1977)でした.「ポスト・クリスティ」のものでは,P.D.ジェイムズ(Phyllis Dorothy James, Baroness James of Holland Park, 1920 - 2014)が好きでしたが,同時期に覇を競ったルース・レンデル(Ruth Rendell, Baroness Rendell of Babergh, 1930 - 2015)のものも,しきりと翻訳紹介されたのでよく読んだものです.『ロウフィールド館の惨劇』はメイドが一家を崩壊させる,底意地が悪く悪意に満ちたレンデルの作品の中でも後味の悪さでは屈指の名作です.都筑道夫が絶賛し,嫌なやつしか出てこないが,小説としては完璧で,作家として打ちのめされたので,これを読むとしばらく自分で小説を書く気がなくなったとどこかで書いていました.
 ひどい身分差別,性差別,格差社会に対する,女性からの怨念と復讐を呵責無く描いたこういう痛快なエンタメのあり方は,19世紀から蓄積があったということなのですね.考えてみれば,金と欲がらみの家庭崩壊を描いていくのが「本格派ミステリー」の王道で,形式化され洗練され,かつ牙を抜かれた煽情小説であったのだと思ったことでした.そういえば,クリスティのデビュー作『スタイルズ荘の怪事件』がそもそもそういう話ですが,これ以上は話しますまい.

 同じく紹介されていたので,あのナイチンゲールが『カサンドラ』という小説を書いていたことも初めて知りました.先頃翻訳が出版され,こちらも丁寧な解説がついております.ナイチンゲール(木村正子訳)『カサンドラ ヴィクトリア朝の理想的女性像への反逆』(日本看護協会出版会、2021年).社会的自己実現の場が与えられずに苦しむ才能ある若い女性の嘆きの独白と,それを宥めようとして的外れな発言を繰り返す「優しい」兄の対話という体裁になっていて,生前には出版されず,私家版の冊子に何度も手を入れつつ転載された作品だそうで,文学作品としての全体的な完成度は今ひとつ.しかし主人公の女性の思索と苦しみの表現は切々と胸に迫り,全く今の時代に女性が感じる悩みと変わりがないように思え,読み応えがあります.クリスタ・ヴォルフの『カサンドラ』を思い出しましたが,また先頃話題になったドイツの「カサンドラ・プロジェクト」にも連想が向かいました.これもすぐにも勉強したいところです.