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「悲愴交響曲」

 年が明けましたが,コロナ禍は一向に好転の兆しがありません.1月11日(月)付け「毎日俳壇」に,西川和子が発表した「かつて無き年立ち返る迎へ撃つ」という句の心意気が胸にしみました.春以降,来年度も今年度と同じような隠忍と戦いの日々になる恐れもありそうですが,苦労は分かち合い,助け合って「迎へ撃」ちたいと思います.どうか求めてきてください.

 チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の終楽章は,晴れやかなコーダもなく,あまりにも救いがないので,熱烈なファンがいる一方,なじめない人もいるようです.手慰みにこの終楽章を混声11部合唱に編曲してみました.

https://youtu.be/BRbw9zp-WhM

 この曲の場合も,これは聖歌ではなかったか,祈りの歌として構想されているのではないかという気がしました.冒頭の有名なテーマと,希望をかき立てるような第2のテーマが一度繰り返されるだけの単純な構成ですが,2度目に現れたときの第2のテーマはすっかりやつれ,力を失っています.瀕死の人間が力尽きて倒れ,そのまま孤独に息絶える様を無情に追うような曲の流れです.
 冒頭のテーマは「キリエ(憐れみの賛歌)」で,第2のテーマは「グローリア(栄光の賛歌)」ではないかと思います.ロシア正教ではどのように呼ぶかよく知りませんので,前回のムソルグスキーの場合と同様,カトリックの用語で失礼します.正教の聖体礼儀とミサでは式次第はずいぶん違うようですが,基本の考え方は似ています.神に憐れみを乞う祈りや,神を讃える祈りはどちらにもあります.
 チャイコフスキーの「悲愴」終楽章で,2度目に現れた「キリエ」は苛立つかのように刻まれ,「グローリア」は弱まり,息も絶え絶えになっていくのは,祈りが無力だと絶望していったことを表すのではなく,逆に祈りが通じたからだと思います.祈りが通じ,肝心な魂は天上に去ったから,地上に残された僅かな苦しみの名残が,密やかに呻いているのでしょう.
 こんな地上の惨めな様子にいつまでも義理立てして苦しんでいる必要などありません.本当に悲惨な者,悲愴な者は誰であるか.本当に葬り去られるべき者は誰であるか.それに偽りなく直面させてくれる迫力が,このシンフォニーの魅力ではありますまいか.

かつて無き年立ち返る迎へ撃つ 西川和子