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廃墟を作り平和と呼ぶ

 「ローマ人は廃墟を作り、そこを平和と呼ぶ」――タキトゥスのこの有名な言葉は,小品『アグリコラ』の第30章に出てきます。紀元1世紀中頃から2世紀にかけ,晩期のローマ帝国の政治家・歴史家であったタキトゥスが,尊敬して已まぬ岳父アグリコラの死に際し,その業績を称える評伝をまとめました。ブリタニア総督として原住民の反乱を鎮圧し,帝国に大きな功績を為したアグリコラの,軍務にあって勇猛果敢,政治に対するに精励精勤,生活において清廉勤勉な生き方を,後輩子孫の道徳的手本として書き残したのです。
 では,この激しい「帝国批判」の文言はどういう文脈で出てくるのか。
 これは反乱の首魁カルガクスなる人物の行ったものとされる,長い扇動演説の中に出てくるのです。
 「~ものとされる」というややこしい書き方をしたのは,歴史叙述の常識が現在と違っていて,歴史的事件の節目節目に背景や当事者の精神状態などを示すために,誰かの長い「演説」を用いる習慣があったからです。一兵士の演説などという場合もあり,しかもそれが文体上高い教養を示しているので,史料として信が置けないとされるのは当然なのですが,ローマの有力者の演説もあり,こちらは恐らくかなり確実な史料に基づいていることが推定されるので,一概に信憑性を否定することも出来ない。
 とまあ,そのような歴史認識や叙述の霧の向こうではありますが,カルガクスは激しく明確な言葉を発します。

     Auferre trucidare rapere falsis nominibus imperium, atque ubi solitudinem faciunt, pacem appellant. (Tacitus:Agricola, 30)
     ローマ人たちは破壊と殺戮と略奪を偽りの名称をもって支配と呼び,廃墟を作ってそこを平和と呼ぶ。

     Britannia servitutem suam cotidie emit, cotidie pascit. (Tacitus:Agricola,31)
     ブリタニアは自らの奴隷状態を毎日買い求め,毎日を暮らしているのだ。

 大国主義・侵略思想に対する今日でも通用する批判です。 これらタキトゥスの思想的・道徳的批判の鋭さ,力強さ,美しさは比類がありません。
 よく授業で紹介するのは,やはりブリタニアで反乱を指導した悲劇の女王ボウディッカの演説です。

 Boudicca curru filias prae se vehens, ut quamque nationem accesserat, solitum quidem Britannis feminarum ductu bellare testabatur, sed tunc non ut tantis maioribus ortam regnum et opes, verum ut unam e vulgo libertatem amissam, confectum verberibus corpus, contrectatam filiarum pudicitiam ulcisci. eo provectas Romanorum cupidines ut non corpora, ne senectam quidem aut virginitatem impollutam relinquant. adesse tamen deos iustae vindictae: cecidisse legionem quae proelium ausa sit; ceteros castris occultari aut fugam circumspicere. ne strepitum quidem et clamorem tot milium, nedum impetus et manus perlaturos: si copias armatorum, si causas belli secum expenderent, vincendum illa acie vel cadendum esse. id mulieri destinatum: viverent viri et servirent.

 
ボウディッカは,自分の前に娘らを乗せて車を駆り,蕃族の一人一人に近寄ってはこう訴えたものである。「ブリタンニア人は,昔からよく女の指揮の下に戦争をしてきた。しかしいまは,偉大な王家の子孫として,私の王家と富のために戦うのではない。人民の一人として,奪われた自由と,鞭で打たれた体と,凌辱された娘の貞操のため,復讐するのである。ローマ人の情欲は,もう私らの体はおろか,年寄の女や処女までも,一人のこらず辱めずにはおかないまでに烈しくなった。しかし神々は私らの正義の復讐を加護している。それが証拠に,敢えて戦いを挑んだローマの軍団兵は全滅した。生き残りは,陣営に隠れているか,退却の機会をねらっているか,どちらかだ。味方の莫大な兵の騒音と鬨にすら立ち向かう気力もあるまい。われらの攻撃と武器に対してはなおさらのことだ。もし武装者の数を比較するなら,戦争の原因を考えるなら,この戦いにどうしても勝たねばならない。でなかったら死ぬべきである。これが一人の女としての決心である。男らは生き残って奴隷となろうと,勝手である。」(Tacitus: Annales, xiv 35. 國原吉之助訳)

 この胸のすくような台詞。これらなみなイギリス古代史の重要な資料であり,民族独立の英雄ボウディッカは今日でもイギリスで敬愛されていると聞いています。
 しかしタキトゥスの文体は難解至極で,私など今でも直ぐには意味が取れません。肝心な事実は極限まで省略した言葉でさらりと流す一方で,底知れない悪意に満ちた邪推や噂話を,何とも巧妙に責任逃れをしながらほのめかしていきます。
 尊敬するアウエルバハは,タキトゥスの文体を採り上げて詳細に分析し,下層階級の苦難に同情し,下からの改革に共感するかに見えるような文言ほど信用できないものはないと断言します。どれだけ蕃族の反乱指導者の演説が美しく,説得力があっても,タキトゥスにはそれに対する共感の片鱗もなく,帝国の安寧と発展以外に何の興味もないのだと。ローマ支配層の道徳的堕落こそが帝国を危機に陥れるのであり,蛮族においてすら見受けられる道義性を,恥を知るならローマ人も見習え,というのが主旨らしい。『ゲルマニア』にも女性が政治的・軍事的指導権を持つという記載がありますが,ローマ人にとってそのようなことは狂気の沙汰であり,髪にバターを塗ったり顔に刺青をしたりするのと同様,蛮族らしい嗤うべき珍奇な習慣の1つに過ぎないと嘲笑の対象にしていたというのです。
 若い頃アウエルバハやノルデンの記念碑的研究でこれらの学説を学んだ時,文献学研究の奥深さと力を体感すると同時に,甘い生来の気質からして,深く落胆したのでした。

 けれども,今再び思うのであります。なぜタキトゥスは,自らが必死で守ろうとする帝国に反旗を翻す蛮族の持つ道義的信念に,かくも美しく力強い,今の私たちからしても真実の言葉を書いたのか。過剰に説得力のある帝国批判はどこから来たのか。アウグストゥス以来,慰撫と融和と平和こそが帝国の繁栄の礎であり,「廃墟の平和」は帝国の基盤を掘り崩すものであることをタキトゥスはよく弁えていたのだと思います。帝国の管理運営にあずかる者として,最悪手だと分かっていながら武力や強権に訴えざるを得ない状況に追い込まれた無念はひとしおではなかったか。
 ただタキトゥスは,「巻き込まれた」だの「被害者はこっちだ」だの「仕方なかった」だの,卑しい言い訳をするにはまともな自尊心がありすぎたということではないかと思います。
 帝国は滅びました。後を追った蛮族の国も,似たような間違いを犯しては,入れ替わっていきます。今に続いてます。ただしこの時,蛮族の反乱以上にタキトゥスが嘲笑して見せた東方の新興宗教(Tacitus:Annales, xv 44)が,やがて別の価値観の世界を実現していきます。それが例えば「国教」になったりして本来の意味を見失うことがあっても,本来の意義は変わりません。強い者は弱い者に何をしても良い,それでこそ世界は成り立ち,回っていく,という考えが間違いであると,弱い者・虐げられた者の側に神はいるのだと,初めて宣言されたのです。タキトゥスが恐れたことが実現します。
 絶望し,肩を落とすタキトゥスの前で,傷だらけで,ボロボロの衣服をまとった人々が,廃墟から次々に立ち現れ,真の平和と繁栄を築いていくのです。どんな悲惨な状況の前でも,そのことに対する信頼と希望を確認するのが,クリスマスの意義でしょう。

 地には善意の人に平和あれ。